前オリックス監督仰木彬さん死去
日本列島、数日前から大寒波が来ています。さむいです。

「さむい」というお題で新テーマを立てようかと思っていたら、残念なニュースが飛び込んできました。



<訃報>仰木彬さん70歳=前オリックス監督
 プロ野球近鉄、オリックスの監督として3度のパ・リーグ優勝を果たし、96年にはイチロー外野手(現マリナーズ)らとともにオリックスを日本一に導いた仰木彬(おおぎ・あきら)さん=現オリックス・シニアアドバイザー=が15日午後4時10分、福岡市内の病院で呼吸不全のため死去した。オリックス球団が16日未明、発表した。70歳だった。葬儀・告別式は故人の遺志と遺族の意向で密葬として行う。球団葬は未定。

 福岡県中間市出身。東筑高卒業後、1954年に投手として西鉄に入団。すぐに野手に転向し、名二塁手として名をはせた。中西太氏、稲尾和久氏、豊田泰光氏らとともに56年から3年連続日本一に貢献した。60年にはパ・リーグのベストナインを受賞。67年に現役を引退するまで、通算成績は1328試合に出場し、70本塁打、2割2分9厘の打率を残した。

 現役引退後は、西鉄で2年間、コーチを務めた後、三原脩・近鉄監督(当時)の要請を受けて70年に近鉄入り。5人の監督の下で18年間、コーチを務め、87年オフに監督に就任。「トルネード投法」の野茂英雄投手(元ドジャース)らを育てた。89年にリーグ初優勝を飾ったが、巨人との日本シリーズでは3連勝後の4連敗。92年のシーズン終了後に勇退した。

 94年にオリックス監督に就任すると、振り子打法の鈴木一朗外野手を見いだし、登録名を「イチロー」として開花させた。また、野手を投手に転向させたり、小刻みに継投する変幻自在なさい配は「仰木マジック」と呼ばれた。阪神・淡路大震災があった95年のシーズンには、「がんばろうKOBE」をユニホームの袖に掲げて、オリックスとしてパ・リーグ初制覇。翌年には、長嶋・巨人を破って日本一に輝き、01年に勇退した。

 04年に野球殿堂入り。がんとの闘病生活を克服し、昨年オフ、近鉄と合併した新生オリックスの監督を引き受け、球界史上最年長監督に。今季の成績は4位。体調を理由に今オフ、監督を退き、シニアアドバイザーに就任した。監督通算成績は988勝815敗53分。


肺がんだったそうですね。
一回は克服したという話だったのが、再発・・・残念です。


この方については、試合運びとかそんなに綿密に見たことはないので、勝負師としての仰木さんはよく知らないですが、組織の指導者、人を動かす上手さが評価されている気がします。


よく言われるように、この方は三原監督の愛弟子で、選手は自由に、何をやらせても結果さえ出せばいい、と言われて育ってきた人で、それが野武士の軍団、伝説の西鉄ライオンズの黄金期を築いてきました。

その方針は自分が監督になっても受継がれ、野茂のトルネード投法も、あれは野茂自身が「フォームをいじくらないでくれること」を条件に入団したという話でしたが、「あの子はあれこれいじらない方がいいだろう」とそのまま好きにさせて、近鉄のエースに、その後大リーグへ行ってノーヒットノーランを達成したことは有名。イチローにしても、かなり好きにさせて自由にプレイさせていたようで、「ただ一人恩師と呼べる人」と言われています。



プロ野球では「瞬間湯沸し器」と言われるような、短気な監督さんが多いイメージがあるのですが、この方は「粋な監督さんだなあ」というイメージがありました。

野球が好きで好きでたまらないのだけど、ヒステリックな感じや余裕がない感じは全然なく、いつも遊びを真剣にやっている、そういうイメージでした。

彼の前には優勝請負人なんて呼ばれた広岡さんなんかもいて、ガチガチの管理野球がよいのだ、仕事はそれだけ真剣にやってなんぼだ、ともてはやされたものですが、そこにまったく自由な仰木さんが出てきて、管理は大切だが、それよりも選手のモチベーションだ、それを伸ばせば人間はすばらしい力を発揮する、というのびのび野球の提唱。なかなか好対照でした。そう言えば、教育現場でも管理教育から個性を伸ばす教育への移行時期だったような気がします(教育の方ではどちらも成功しなかったようですが)。



神戸の人にとっては、震災後に「頑張ろうKOBE」とユニフォームにつけてプレイしてくれたのがかなり強い思い出になっているようで、その思い出を口にする人は多いようです。パリーグなんであまり放映されることはなかったですが、ニュースとかでイチローのユニフォームに「頑張ろうKOBE」と映ると、こちらもなんだかうれしくなったものでした。

オリックスバファローズの合併で、まとめあげられるのはこの人しかいない、と抜擢されて球界史上最年長監督として采配を振るうも、やはり再発していたんでしょうか。すべてをまとめあげて後進に道を作り、ご自分はまた闘病生活に、ということだったのでしょうが・・・。


今年のパーティに野茂やイチローがアメリカから駆けつけてくれて、そのときに「もう一回みんなでいっしょにやろう」と誘いをかけたというのは有名です。

もちろんあちらでの契約があるので断られたそうですが、それが実現していれば、ドリームチームが見られたかもしれないです。



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ひょうひょうとした性格が愛されていたというのもありますが、みな「個性をきちんと見てくれて、それを伸ばしてくれる人。はげましてくれる人」と、無意識の内に理想の保護者、理想の教育者を見て、教え子のイチローたちに自分たちを重ねていたのかな、という気がします。


バブルの時代からバブル崩壊と、日本の激動の時代と重なってもいました。日本の高度成長が長嶋と重なるとすれば、バブル崩壊のつらい時期をともに過ごした、時代を象徴する監督さんだったかもしれません。




お疲れ様でした。またいつか会いましょう。


ウィキペディア「仰木彬」









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by summer21st | 2005-12-16 12:02
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